
吉岡 政和よしおか まさかず
- 1974年
- 6月17日 西宮市生瀬町生まれ
- 1987年
- 西宮市立生瀬小学校卒業
- 1990年
- 西宮市立塩瀬中学校卒業
- 1993年
- 西宮市立西宮高等学校卒業
- 1999年
- 近畿大学商経学部経営学科卒業
- 1999年
- 中山正暉建設大臣(当時)の秘書となり政治を学ぶ
- 2003年
- 28歳で兵庫県議会議員選挙に挑戦するが落選
- 2007年
- 西宮市議会議員選挙において4,041票を獲得し初当選(45名中6位) 西宮市議会総務常任委員会副委員長、 西宮市議会建設常任委員会委員長を経験
- 2011年
- 西宮市議会議員選挙 2期目当選
- 2012年
- 西宮青年会議所理事長
- 2015年
- 兵庫県議会議員補欠選挙において22,907票を獲得し初当選(5名中1位) 続けて、兵庫県議会議員選挙 2期目当選
- 2018年
- 1月31日 県議会議員を辞職し、西宮市政改革のために活動開始
- 4月 西宮市長選挙に挑戦するが108票差で惜しくも落選
- 2019年
- 「選ばれつづけるまち、西宮」を実現できるよう鋭意活動中
- 2022年
- 大阪市立大学大学院都市経営研究科都市経営専攻博士前期課程修了(3月24日学位授与)
吉岡政和にインタビュー
これまでのルーツを探る
吉岡さんは幼少〜青年時代、どんな場所で育ったのでしょうか?
吉岡生まれは西宮市生瀬町。このまちに育ててもらったからこそ、今の僕があります。小さい時からわんぱくだった僕は、地元の大人たちによく叱られました。そしてそれ以上に、そのあたたかさに助けられていました。だんじりをはじめとする地域活動に夢中になって駆け抜けた20代は、僕の宝物です。
32歳で初めて市議会議員になったきっかけは?
吉岡それまでに関わってきた地域活動の影響も大きかったですが、政治を学ぶ中で28歳で味わった県議会議員選挙の落選がいい経験となりました。それから4年間は、「もっと、地元の方々の役に立ちたい。」「もっと、西宮のためになる仕事がしたい。」という純粋な気持ちに立ち返り、地元を中心に活動をしていました。それで、たくさんの方々の後押しもあり、僕は西宮市議会議員になることができました。
その後、2期8年市議会議員をされていますが、どんな活動を?
吉岡西宮市北部の災害対策やコミュニティバスの導入など、地元である西宮北部の方々の期待にこたえるための政策を提案しました。その結果、市内初となるコミュニティバス、「ぐるっと生瀬」の導入・運行を達成することができたのです。この取り組みは、地元の人たちから多数の感謝の声をいただくとともに、運行協議会国土交通大臣表彰を受賞しました。この体験は僕に、政治家としての大きな自信と、新たな責任感を与えてくれたように思います。
地域課題以外にはどんなことに取り組まれたのでしょうか?
吉岡もちろん、北部のことだけを考えていたわけではありません。財政改革をはじめ、教育政策・福祉政策の改善といった、西宮市民全体のための政策にも積極的に取り組みました。特に新人議員の頃は、毎日のように市役所に通い、西宮市が抱える課題の全体像を把握するべく学んでいたものです。
市議会議員をされたあと県議会議員になった理由は?
吉岡2014年に、印象深い出来事がふたつ起きました。ひとつは、西宮市長の交代劇。このとき僕は、西宮市政のあるべき形について改めて考えさせられました。そしてもうひとつが、政務費を不正に使用した兵庫県議会議員による、前代未聞の「号泣会見」です。「兵庫の政治家が、こんな有様でいいのだろうか」有権者の信頼を裏切る行為に憤りと悲しみを感じつつ、僕は何より大きな焦りを抱きました。市政は、県政と密接な関わりを持っています。市を変えていこうとしたときに、「それは西宮市だけで決められる問題ではない」と、「県の壁」に突き当たることも多くあります。その県の政治がこの有様では、県内のあらゆる自治体が、その悪しき影響を受けることになるのです。
西宮市を変えるためには、県政を知り、県政に食い込んでいかなければならない。明るく豊かな西宮の未来を守るため、僕は県政への進出を決意しました。
吉岡さんは会社経営の経験もされていると聞きました。経営者としてどんな視点をお持ちでしょうか。
吉岡僕は市議に当選後の33歳で介護事業を起業し、昨年退職するまで10年間経営してきました。従業員の給料を捻出しないといけないとか、しんどくても利用者さんや従業員の家族のことを考えると辞められないとか、様々な苦労もありましたが、優秀なスタッフに恵まれることで事業を継続することができました。民間の経営感覚を磨くことができたのと、組織における人の大切さを学ぶことができたのは大きな財産です。